ナルミヤの備忘録(仮)

ナルミヤが学んだことなどを書き記していくブログ(方向性模索中。)

東大多浪体験記 1 プロローグ

はじめに

はじめましての方ははじめまして。 そうでない方はお久しぶりです。
突然ですが、私は2018年現在、東京大学の学部3年生で、二浪して東大に入ったため「東大多浪交流会」という、サークルもどきに所属しております。(詳細については掲載記事貼っときます↓)


東大多浪交流会は、高校卒業から東大の前期教養に入学するまでに2年以上の間隔が空いてるものたちが集まっている集団で、昨年の発足から駒場祭という東大の学園祭で「東大多浪」という、多浪体験記を出版しています。 昨年、自分も執筆したのですが、字数制限と締め切りという時間制限から、「東大多浪」では満足に記すことができませんでした。
締め切りに関しては、もっと余裕持って執筆していれば良かっただけと言われればそうなので、責任転嫁と言われれば反論できませんが。
そこで、今年の「東大多浪」が発売され終えた2018年駒場祭の終了後、このブログで自分の思う存分、体験談を記そうと思ったのがことの発端です。




....という文章が、ブログの下書き欄に残ってました。構想してから1年間書いてなかったんですね、恐ろしい。自分のルーズさと時の経つ早さが。
というわけで、今回は、前々からやろうと思っていた(が恐ろしいルーズさによってやらないでいた)、多浪体験談(とできれば、その後の大学生活の少し)を綴って行きたいと思っています。

これは、高校三年生のとき、東大を志望しながらも、全国模試の偏差値は40で全ての大学に足切り(センター試験の点数が悪いために、二次試験を受ける前の段階で不合格となること)され、どこの大学も受けられずにいた受験生が、その壁の高さに心を何度も折られながらも、受験勉強の研究やメンタルコントロール術などを駆使して、奇跡的に2浪で東大に合格した物語のような体験談です。(1年前の僕談)
欲を言えば、受験生や、無謀な挑戦に向けて頑張ってる人の励みに、無謀な挑戦に頑張ってた人の慰みになれば、望外の喜びです。(1年前の僕談)


1とナンバリング打っていることから予想できる通り、いくつかの記事に分けて語っていきたいと思います。
完結まで、どれぐらいの期間を要するかわかりませんが、ゆるりと書いていこうかなと思ってます。

スタート地点をどこからにしようかと思っていたのですが、多浪交流会の冊子「東大多浪」と同じ幼少期からゆるりとはじめたいと思います。



...あ、正直、今回のやつは多浪と全く関係ないので、僕の生い立ちとか興味のない人は今回の記事はスキップして大丈夫だと思います。
続きがちゃんと出るかは不確定ですが、いつかきっと、おそらく、多分、maybe、出ると思います。

では、東大多浪体験記の始まり始まり。

幼少期

僕は、父母ともにサラリーマンという、地方の一般家庭に生まれました。
よく、「ぼーっとしすぎて、『ぼー』って音が聞こえてくる」と言われるぐらい、ぼーっとしていた幼少期でした。
父親が単身赴任、母親は朝早くから夜遅くまで仕事で、両親ともに家にいることが少なく、一人でいることの多かった僕は、預けられていた保育園でよく一人で絵を書いて遊んだり、母親から渡された算数ドリルを一人で黙々と埋めていたりしてました(母親談)。 僕は覚えてないけどね。

また、図書館が気に入ったからという理由で、私立小学校を受験しました。
まあ、実際のところは、本が好きだった僕に図書館を見学させることで、母親の友人が先生として勤めているため気心の知れた小学校に入学させようとした、母親の企みにまんまとハマっただけなんですがね。

めでたく、お受験は合格し、その小学校に通うこととなりました。

小学校時代

小学校低学年は、よく駆け回り、程よく本を読む男の子でした。
昼休みにずっとサッカーしてるようなやつで、勉強はあんまりしなかったですね。。。
また、母の仕事の都合上、よくドラマをみていました。 当時のドラマは全て把握してました。 南くんの彼女とかよかったなあ。。。
ドラマは、小学校時代通してずっとよくみてました。

母親がゲームを禁じていたので、ゲームはしていなかった。。。と思いきや、父親が、ゲームを買ってくれたので、少しだけやってました。 ポケモンルビーサファイアとか。(まあ、隠れながらやっていたので、たかが知れてますが)
小学校が、スクールバス通いで遠くにあったことから、友達と家が離れていることが多く、休日、友達を遊ぶ。。。 なんてイベントは、ごく稀にしかありませんでした。

野球との出会い

それよりも、衝撃的な出会いがありました。 。。。。。。。。


そう、その後、僕の人生の側にあり続けた、野球との出会いです。


きっかけは、NHKアニメでした。 みなさんご存知の「メジャー」です。
ちょうど、この作品の第1シーズンがNHKで放映されており、「野球っておもしれえええ」と思うようになりました。 おとさんかっこよかったなあ。 亡くなっちゃった時は子供ながらにめちゃくちゃ泣きました。 懐かしい。
なお、「メジャー」ですが、原作は英語表記である「MAJOR」ですが、アニメはカタカナ表記みたいですね。 懐かしい。(2回目) そういえば、MAJOR 2ndのアニメやりましたけど、みてないなあ。 面白いんですかね? 見ようかな。。。。 話がそれましたねすいません。

ちょうど、僕がメジャーにハマった時期、通っていた児童館の先生が、児童館にバットとボールを持ってきて、野球を教えてくれました。
そこからは、もう野球の虜でした。 親にグローブをねだって買ってもらい、休日には公園の壁に向かってボールを投げ、昼休みには、友達を誘って野球をして過ごしてました。

小学校中学年になりました。
あいも変わらず、僕は野球が大好きで、休日は壁に向かってずっとボールを投げてました。
それなら、なんで少年野球チームに入って野球やってないのかって?
単純です、母親に断られたからです。
近くの少年野球チームを調べ、いいと思ったチームを母に打診したのですが、母がそこまでのサポートはできないという理由で却下されました。 まあ、理屈ではわかるのですが、今考えても腹たちますねこれ。
。。。という愚痴は置いておきましょう。

小学生時代と勉強

そんなこんなしてたら、勉強のできない小学校中学年の男の子が出来上がってました。
母はこの状況はまずいと思ったらしく、僕を公文式に入れます。
でも、勉強なんて好きでもない僕は、宿題も真面目にやらずにだらだらと公文教室にいるだけの子供でした。 ただ一つ数学を除いて。

小学校の頃の僕は、なぜか算数。。。というよりかは数学に惹かれました。
まあ、何を算数といい、何を数学と呼ぶかは諸説ありますが、ここでは、教育課程において「数学」と言われる分野をさしてます。

勉強は特に好きではありませんでした。 特に、英語は大嫌いでした。 国語と日本史はちょっと好きでしたけど。
それでも、なぜか数学は好き。。。とまで行かなくても、まあ、数学ならやってもいいかなという気分になりました。
そんなわけで、公文式でも数学だけは真面目より少し不真面目ぐらいでやり通し、小学生のうちに微積などの高校課程の数学の内容をするぐらいまでにはなりました。
そうして、気づいたら勉強一筋になってました。。。とはなりません。 そうであれば、親はどれだけ楽だったことでしょうか(笑)。
勉強は特にみも入らず、成績も中の中で高学年を迎えます。

それでも、僕に転機がおとづれます。
高学年になり周りが塾に通い始めたのです。 さすが私立の小学校。 意識高い
友達が語る塾での楽しそうな話を連日聞かされ、塾に行きたくなった僕は、母に塾に行かせくれと頼み込み、期間限定で塾に通うことになりました。
塾で習うことは、新鮮なことが多く、そしてとても楽しく勉強を教えてくれました。
そうして、勉強ちょっと面白いかもなあと思い出しました。
それと同時に、周りが、地元の進学校であるL中学に行きたいと言い出します。 さすが、私立小学校。 意識高い(2回目)。
熱気に当てられやすく、現状など顧みない僕は、「自分も!」と、L中学を目指すようになり、親にもそれを公言しました。
また、当時、かなり仲良くしており、今でも親交のある同じ小学校のTくんが、塾の模試で九州1位を獲るほど勉強できる人でそれに憧れたのも大きかったかもしれません。
ていうか、人に影響を受けやすく、自分の状況を顧みない性格は今とほとんど変わらないじゃん。。。成長してないですね笑。

そうして、6年生になると、塾にも本格的に通うようになり、中学受験へとのめり込んで行きました。
休日は、朝10時には塾に行き、17時まで授業を受け、帰ってきてからも勉強をするという生活をしてました。 勉強がたのしかったんでしょうかね。
そんな生活をしてたせいか、全く合格する兆しもなかった当初の学力が受験3ヶ月前ぐらいに急激に伸びを見せ始め、気づいたら模試で合格率80%をもらえるまでになってました。
ついでに、小学校でも成績は上から3番目ぐらいにはなっていました。 トップはもちろん、Tくんです。

そして進学

そうして迎えた中学受験、無事合格をもらいL中学に通うことになりました。
余談ですが、母には、L中学に合格しないと野球させないと言われていたので、その意味でも必死でした。

え?ここまでの話全部余談だろって? その通りですすいません。

中学生編 前半

晴れてL中学に入ることになった僕は、勉強のできる優秀な同級生に囲まれるという事実を受けて、中学に入って更に勉強に身を入れることにしました。
そうしたら、成績は、学内でも上から30-50番目ぐらいで落ち着いていました。

中学時代の僕と野球

もちろん、好きだった野球も続けます。
というか、ついにチームに所属することになります。 そう部活です。 野球部です!
ついに、チームで野球ができる!

。。。と思っていたら、入部は秋からとか言われるし、練習はしっかりしてないし、ユニフォームや練習着も着ずに練習してるし、最悪の環境でした。
同じく野球部志望の同級生とキャッチボールなどの練習をしながら、秋に備え、野球部に入った後も、練習に参加せず、自主練しながら、当時はまっていたバトミントンをしてました。(おい)
しかし、中学2年になり、新任の先生がコーチに着いてから状況は一変しました。
挨拶はしっかりして、練習メニューもしっかりし、練習は練習用ユニフォームで行うようになり、僕はまともになった野球部に参加するようになりました。
実力も伸びていき、元から力の強かった僕は、特に肩の強さと打球の飛距離に秀でたこともあり、ますます野球に打ち込みました。
もちろん、その傍ら、勉強もして、入学以来の順位をキープしてました。

そんな順風満帆と行った生活に転機がおとづれます。
利き手の肘の骨折です。
練習試合のことでした。 味方がエラーでそらしたボールをとって投げた時、肘から「ゴリッ」と音が聞こえました。
それから、すぐにコーチに申し出て、病院にいきました。
結果は、剥離骨折。 全治2ヶ月でした。

ちょうど、上の代の最後の大会が終わり、自分たちの代のそれも中心選手として、最初の大会を頑張ろうという時でした。
最初の大会まで1ヶ月を切っており、どう考えても間に合わない事実に涙しました。
悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくてたまりませんでした。
それでも、まだ試合はあるから、まずは治そうと思い直し治療に専念しました。
しかし、本当の苦しみはここからでした。
そして、それは、大学受験での失敗まで続く物語の始まりでした。

(1 終わり)

1の終わりに

さて、今回はここまでにしたいと思います。
というのも、ここまでは、多浪体験記としてあまり関係ないことでしたが、ここからはがっつり多浪のことと関わってくるので、区切りとしてちょうどいいかなと判断したからです。

かなり、とっちらかった内容になってしまったし、想定の1。5倍ぐらいの分量があって途中書くのめんどくさくなりそうでした。 草。

次回は、中学生編後半から高校3年生の受験あたりまで駆け抜けて行ければなあと思ってます。
まあ、多浪体験記 2の更新がいつになるか知らんけども。

そういえば、私ごとですが、先月誕生日を迎え、また一つ年をとりました。
1年間の目標は、研究での対外成果をたくさん出すことです!
。。。というのが、学業的なもので、人としては、優しく、そして、思いやりのある人間を目指して行こうかなと思っております。
ここまで、読んでいただいてありがとうございます。 相当忍耐強いですね。 すごい。
では、夜も更けて334も越えてしまったので、ここらで筆?を置きたいと思います。

それでは、またいつか。